ふたりブログ

itokoとabikoの2人による対話式ブログです。東北出身の2人が 方言丸出しでサブカルチャーや世の中の事をそこはかとなく、 時にはバッサリと語り合います。ファミレスで隣の会話を こっそり聞いている感覚で楽しんで下さい。 意味不明な方言があったらコメント欄でまで!

高畑勲は実はアニメ史を変えていない アルプスの少女ハイジのこと その2

>30分でこのプロットじゃもたない。もっと話しを詰め込め、もっとエピソードを入れろ、初回でこれじゃ数字が取れない。
必ず言われるでば。
 
おめの現場の話を聞くと、そんな輩の集まりで今のアニメが作られてるのはよくわかってるでば。
そして、その波にイヤでも乗るしかねーのも散々聞いたよ。
よく漫画の編集者なんかが、本当か嘘かわからんけど、何ページに1回はギャグを入れろとか、エッチなシーンを必ず入れろとか、あれと同じだな。
アニメの会議では実際にその声が出てくるのをおめは聞いてる訳で、本当にガッカリする話だよな。
確かにそういう視聴者や読者に媚びた作品は、瞬間視聴率を上げる事に繋がってるのがもしんねげど、名作は生み出さないのは間違いねーわ。本来ならば視聴者読者を馬鹿にしてる行為だと思う。
それにそんな小手先の戦略で飛びつく人達って、通りすがりの人だと、おいは想像するのよ。本当にその作品に夢中になる人達は、そんなアホみでな演出には騙されないよ。
 
 
>もしかしたら、おもちゃメーカーの要望で、おもちゃ化できるアイテムとしてコンパクトどがヘアピンどがをハイジにつけねげねぐなるがもしゃねしな笑
 
ハイジの後に世界名作劇場シリーズが始まった訳だげど、ここにほぼ必ず登場してた主人公のペット達が、まさにそういう理由かららしいど。後半の方になると、もはや無理矢理だったらしいな。
ハイジにも原作にはヨーゼフはいねがったし、高畑作品だと母をたずねて三千里のマルコがお兄さんからもらった猿、アメデオが出てくるげど、これが視聴率の為に作ったキャラクターなのがは不明だな。
でも、高畑ファンだがらってフォローする訳ではねーけど、もし仮に視聴率の為に作らせられたキャラクターだったとしても、少なくとも意味のある存在にはしてる気がするげどな。
 
そういうのから思うに、原作をいろいろとアレンジしたり、新キャラクター入れるのには、おいはそんなに反対する訳ではねーのよ。
この場合、原作を先に読んでたりしてっと、ちょっと抵抗は出てくるんだげど、アニメが先ならば、そんな事は知らないで視聴者は見る訳だから、ストーリーさえしっかりしてればおいはいいと思う。
おもちゃの為のアイテムも、世界観さえぶち壊さないなら、おいは否定はしねーよ。
ただ、原作のテーマを無視して、無理矢理組み込もうとする伏が今のアニメにはあっぺ。あれが許せないんだわな。その演出を入れる事で、テーマがぼやけてしまうなら、その演出は間違いなんだがらさ。
 
>だがら、ハイジは絶対今作ることができない作品なのや。
 
これ、おめの口から出るとガッカリするな(笑)もっと頑張らいわ。
絶対に無理って解ってても、あえて目指す事は出来るんでねーのが?
なんらかの証明さえされれば、その人の意見っつーのは重みを増すんでねーがと思うのよ。信念貫いて良い物は良いと、曲げない気持ちって大事な気がするど。
かぐや姫ドキュンタリーなんか見てると、高畑監督の縦横無尽ぶりを大分書き起こして、周りのスタッフが振り回されてるのが見て取れるけど、縦横無尽を貫くのも大変だと思うのよ。
高畑監督はハイジの頃から衝突してたらしいし、妥協もあっただろうげど、貫いた部分もやっぱりあったんだと思うど。
 
 
>高畑勲のすばらしい演出どが考え方はもちろん輝くものがあるのは確かであっても、
いま、その流れを汲む作品があるかというと、見当たらないわげさ。
 
そうがな。
高畑勲監督が去った後の世界名作劇場なんかは、しばらくの間はある程度の理念は受け継いてた気がすっけどな。
おめの言う通り、近年のアニメにハイジみでな1話使って山に登るだけみでなのは少ないにしても、高畑監督がハイジでやった生活を丹念に描くという理念は、大分浸透してると思うど。
高畑監督が出してる本で言ってた事だげど、背景を細かく描写する話があったと思ったな。キャラクターの背景を細かく描くことで、そのキャラクターの性格だったり、その舞台を表現するっていう演出法。
今のアニメを見てると、描きすぎな位、キャラクターの舞台設定が出来てるのが多い気がするわ。
藤子・F・不二雄先生が、のび太の部屋のレイアウトや、しずちゃんの部屋を細かく指示するのも同じ事だと思うのよ。
ああいうのって、先人の人達が作り上げたものでねーがな。
ハイジ以前のアニメでは、なかなかねがったのは事実でねーがいや。
 
>アニメ史に残る作品ではあるけど、アニメ史そのものは変わっていない(広義で)。
アニメ史に点在する高畑勲の作品だげが、輝いている。ってな。
ちょっとメルヘンっぽくまとめたげっとも、多かれ少なかれそんな感じしねが?
 
おめの言いたい部分はよくわがるよ。
でも、実際はどうなんだべな。
少なくとも、宮崎や高畑っていう人物に憧れてアニメーター目指した人はいると思うし、その人達が高畑演出の何が優れてるのかは、好きな作家だったら絶対理解してるはずだと思うのよ。
そして、そう思ってても、それを自分達が携わってる作品で発揮でぎねー環境にあるんでねーがな。
アニメの本質をわがんない上の人達が、ビジネスの部分しか見ないであーだこーだ言い、それに従うしかない事を悔しく思いながら働いてる人達も多いと思うよ。
多分、勝手な想像で言えば、殆どがそういう状況で仕事してんでねーのが。
でも、それは高畑監督も宮崎監督も同じだったらしいよ。
いくら企画出しても、通らなくて、勝手な事ばり言われて腹立ててって。でも、妥協しながら作って来たらしいし。
そう考えると、やっぱりどっかでチャンスが自分に来るのを待つしかない訳で、信念は常に持ってるべきだべ。
上の人達が言うからやるしかないっていうのは、今は仕方ないげど、信念さえ曲げなければいつか日の目を見る事もあってば。
いや、もしかしたら、その雁字搦めの制約の中で、小出しにでも頑張ってる人は、いるんでねーのがな。気づけないだげで。
 
 
>かぐや姫だってそうだべ、歴史を変えた作品ではなく、あの作品だげが輝いているわけだがらな。
 
高畑監督の考えとして、今のアニメーションの向いてる方向に疑問を持ったんでねーがと思うのよ。
立体的な映画ばっかりで、ストーリーも悲観的なのが多く、訴えるテーマも廃れたものばりで、答えも出さない様な、そんなのばり作られてるのに、一石を投じたんじゃねーのが。
それに対して、歴史が変わるかどうかはわがんねーげど、変えたい気持ちで作った作品ではあったんでねーがな。
 
 
>クリエイター一人ででぎることでねーがら。出資者、放送局、演出家、制作会社、みんなして
やらねーどでぎねがらさ。まー、無理でねーがな。
 
これはおいの勝手な考えの話だげど、かぐや姫の物語は、ずっと語られてきた竹取物語のスタンダードを作り上げたと思うのよ。
プーさんがイコールでディズニーのあのキャラクターを想像する様に、今後かぐや姫を語る時、もうあのかぐや姫のストーリーとキャラクターは頭から離れないんでねーがな。
その上、その辺のセルアニメではなく、デザインも廃れない日本絵巻の様なタッチで描かれて、3Dの技術の進化によって「古い」と感じる演出もなく、これも廃れようのない男鹿和雄の背景美術の美のセンスと、トムとジェリーの動き同様に、流行廃りのない完璧な動画、手書きの最高傑作として、やっぱり歴史に残る作品だと思うのよ。
ストーリーもアニメーションとしても廃れない以上、いつか必ず、それに続く人は出るんでねーのがいやと期待してしまうな。
もし仮に3Dが当たり前になり、3Dでも2Dの良さを表現出来る時代が来たとしても、その時に本物のアニメーションを追求する人が居れば、いぐらどんなに制作費がかがろうと作るに値する日が来ると、おいは信じたいな。
 
abiko